昭和47年12月18日 月次祭
信心は親に孝行するも同じことぞや、どんなに信心が詳しく、素晴らしく熱烈にできましても、親に孝行する心が、もしその人になかったとするなら、それは基礎のないところに家を建てるようなのもだと思いますね。どんなに立派に建ったかのようであっても、必ず揺るぎます。信心は親に孝行するも同じことと仰せられますから、信心、子供が親を思う切実心、親に喜んでもらいたい、少しでも親に楽してもらいたい、親に安心してもらう、と思うそういう心が、信心の根本になるのです。
ですから、ここのところを私どもが確かめさして頂いて、そこから信心を分からして貰い、信心を頂かなきゃならん。ほんとにあの子供が親を思うという、確かに神様の機感に叶うと思うですね。合楽食堂の中村さんが、もうこの人は、ほんとにもう、ほんとに切実に親のことを願うですね。もうお母さんが九十いくつ、乳がんで、医者はもう助からん、けどもまあ、助かるか助からんか、そのまあ、二つに一つのようなことですけれども、手術をする、その頃から、
その親の病気を治したい一心で、椛目時代にお参りをしてきた。もう親のために一心の、まあ、信心がでけた。そいで、年寄りのまあ、嫌がることをお医者さんが言われるもんですから、もう帰りたいと言う。それでもうどうさせて頂こうかとと、どっちにしても助からんのなら、どっちにしても助からんのなら、もうつれて帰ってきなさい、そして、一心にここにおすがりしなさい、と言うて、その無理に病院を退院してまいりましてね、そして一生懸命神様にお願いされた。
おかげを頂いてからもう助かって七、八年、六、七年になりますですか。九十幾つまだ今日までおかげを頂いてもう年が年ですから、大した事は出来ませんけれどもそれでもやっぱり、時候が良くなると外に出てから畑でもいじられる位に、今はもう寒いからまぁあの炬燵に入って・・?もうあちらに行くと、お婆ちゃん炬燵の前のテレビのもう、それこそ百味の御喰、是が百味の御喰じゃろうと言うて喜ばれる位に、果物やお菓子やら色々とその揃えているわけなんです。
ソトヱさんの願いというものは、それはもう・・?くらいにあの、熱心に願われます。そいでもう今日も母が生きております、今日もおかげで、じっとこたつの前に座っておりますということがもう有難うしてたまらん、ていう感じで、参って見えます。朝参って来て、昼もというわけです。そいでお初穂は朝のご祈念のときにも、母の健康御礼のお届けがあり、昼参ってくるときもやっぱり母の、おばちゃんの名前で、健康のお礼のお届けをされます。先日からちょっと具合が悪かった。
私は金光様のお神酒ば頂くとすぐおかげを頂くけんち、で今日はお神酒を頂こうと思うて参ってきた。そしたら神様から、私が今度御本部から頂いて帰ってきとりますあのお神酒が二合びんに、御直会で頂いてきて、それをそこに下げよと言う事を頂きましたから、すぐそれを下げました。親先生神様は見どうしでございます。今日母がもうお神酒お神酒というて、今日はお神酒を頂いて行かんならん、と思いながらあのびんを忘れたことを思うて申し上げずにはおりましたけれども。
母が夕べからお神酒お神酒と言います。惟は矢張りお婆ちゃんが、お神酒お神酒と言うたんじゃない、やはり娘が親のことを切実に祈り、切実に思うからです。親の言うなら子供の孝心に免じて下さったような感じです。おかげでもうほんとに、もうけろっとおかげを頂いた。もうお神酒のあらたかな事を、もう喜んでおるとこう言う。もうこれがね、信心の基礎になるもの、基盤になるもの。いまお祭り前に若先生がお届けしてましたが、おばあちゃんがここ一日二日、具合が悪いというて休んでおって。
でお見舞いに大変喜んで、しばらく耳が遠いからそのお話がでけんのです。けれどもまあ親の見える所にあっち行ったり、まあうろうろしてそのまあゆっくりした。したら帰る頃には私はもうおきってみろち、気分がええそのままおきってから、まあ機嫌よう起きとります。昔から親は子薬子は親薬というが、ほんとにそうだなぁと思います。というほどしにです親子の情というものは、どういう薬よりも効くわけです。
ですから親が子を思う、また子が親を思うというそこからね、そういう思いで信心をせよと親に孝行するも同じこと仰る、親に孝行するいやしとうて堪らんその心で信心する。ね、私どもはほんとに、反省しなければらん、私は今親にどのくらい喜んでもらおうと思っておるか、親にどのくらい楽をしてもらおうと思っておるか、親はもう使うだけつこうとかにゃ、そげなふうにおもやするまいけれども。
まあそれと同じ様にその、ありもしてくれこりもしてくれと、そりゃまあ親が健康であるなら、それもいいですけれど、もうほんとにそれは様々な親子があります。とにかく親に喜んで貰いたい、親に安心さしたい、いやもう親のいない人ならば、もう御霊様になっとられますから、御霊様に喜んで頂きたいと言う様な所謂、先祖に喜んで貰いたいと言う様な心、というていかに先祖を大事にしたから、親を大事にしたからというて、おかげを頂くのじゃないですよ。世の中には随分に親孝行な人があります。
けどそりゃまあ良い事ですから、親孝行は有り難いですけれども、その親孝行をするから、おかげを頂くというのではない、そういう親に孝行する、親、孝子の心を持って信心をするから、おかげを頂くんです。親子の間だけではない。そりゃ親の事をろくそにしょうと思う様な者はおりませんけれども、ほんとに喜んで貰いたい、ほんとに安心して貰いたい、少しでも親に楽して貰いたい、そういう切実心があるか、ないか厚いか薄いかと言う事なんです。だからそういう親を思う心で信心をする。
もうこれなら絶対。信心はまずだから親孝行からという事になります。そこから信心の道を体得させてもろうて、信心を愈々おかげをこうむって参ります所から、親に孝行する心で、信心をする所から、神の機感に叶う神様もお喜び下さる、私共も有り難いおかげが受けられる。そこでなら、親に孝行すると言う事、親に喜んでもらうと言う事、親に安心をして貰うと言う事、その為にはどう言う事がまず分からなければならないか。
ある御信者さんがこの頃どうもお母さんが、機嫌があまり良くない。大変親孝行な子供です。何が気に入らんとじゃろうか、と思うてあの色々おご馳走を作ってやったり、隠居所ができたそうですから、その隠居所の畳替えをしてやったり、色々するけれども、どうも機嫌があまりよくない。で、夫婦で話し合ってから、どうしたこっちゃろうか、この頃、ばばしゃまが、いっつもこう機嫌がわるい顔しちゃる。呉服屋さんですから、京都に仕入れに行くときに、うちは改式をしている。
けれどもやっぱりもう年を取られたから、やっぱりその南無阿弥陀仏も、又ちっと懐かしくなられたつかん知れんと思うてから、京都でもう最高のご仏壇を注文して、そのおばちゃんに部屋に仏壇をお祭りしょうと言う事を相談された。所がそれこそけんもほろろに、金光様の信心をさしてもろうて、改式までさして頂いておって、御霊やもこのようにお祭りをしてもろうて、どうしてこういう仏壇がいろうかと。だからね食べ物でも着物でも、家を美しくするでもなかった。
ところがお店の方が、あるときに大変忙しかった。そこで奥さんが小さい子供を、離れの隠居所のお婆ちゃんにでも、一時ばかり預けて来なさい、というてその預けに行った。済みませんお婆ちゃんとちょっと子供を見よって下さい。そしたらもう初めてもうそれこそ、待っとったと言わんばかりに喜ばれた、という話を聞いた事があります。お婆ちゃんの心の中には、隠居所を作って貰う事でも、仏壇を誂えて貰う事でもなかった。おご馳走を食べたいと言う事でも、良い着物を着ると言う事でもなかった。
おばあちゃんが一番願われておられるのは、もう自分を隠居所に押し込んでしもうとる。自分も若いもんと一緒にね、店に出てきてお手伝いでもしたいごとある気持ちがある。結局は、親の心が分からなければ、親孝行はでけない事が分かりますよね。ほりゃもうあっちはもう親孝行、そりゃもう隠居所を作ってやって、沢山立派な百味の飲食を食べさせて着せて、ああしてやってこうしてやってと、成程それが親の願いであるなら、それはまた有り難い。
親が勿体無い勿体無いと喜ぶなら、それもいいけれどもです、肝心要の親の心というものが、分からずして親孝行はでけんのです。親孝行がしたい親に安心をして貰いたい、喜んで貰いたいという人は、まず親の心を伺います。親の心が分かります。親の心が通うて来る。今日の正義先生じゃないけれども、耳が遠いから別に話をするわけでもないのだけれども、ただ寝ておられるその辺ばうろうろしておるだけで喜ばれる。しておるうちに気分が良うなった。
それこそ親は子薬子は親薬という、その例えにもれずおかげを頂いて、おきってみろかちして気分がよくなって、気色が良くなっとたと言われる。親孝行ちゃそうした事なんです。そこでです私共が段々おかげを頂かしてもろうて、親に孝行する心で神様の信心をする。そこでです神様の心が分からして貰いたい、神の思いが分かりたい、神様の御心情が分かりたい、という信心にならせて頂くのでございます。
神の心が分かりたい、いかに熱烈にお参りをしたり、熱烈に修行をしたり、一生懸命お供えをするから、神様が喜ばれると言うのじゃない、神様の心に添い奉る、そのことが、神様のお喜びになる。そこで神の心が分かりたい、神様の心が分かりたいと、お広前通いをさしてもらう、そして神様のお心であるところの、み教えを拝聴する。そこから神様の願いであり、また神様の思いが段々分かってくる。
そこでその思いに添い奉る信心をさせて頂くということが、親の所謂信心は親に孝行するも同じ事ぞと言う事になるのです。信心はしておるけれども、ただお参りはしておる、長い事だけ信心だけはしておるけれどもです、親の思いに添おうとしない、親に孝行するいわば、信心は親に孝行するも同じことと仰る、その心を持って信心をさせて貰わなければ、ほんとのお道の信心は、体得でけないし、ほんとのおかげも受けられないと言う事になるのです。信心はもう親孝行は信心の根である。
根本なんです。
今日は北野の秋山さんの所のお父さんのお立ち日だというので、所謂お父さんはお神酒が好きだったからと言うて、お神酒のお供えをされる。なら今晩お祭りに合わせてから、ご挨拶させてもらう、先ほど玉ぐしを上げられた。それは段々親に孝行する心で信心がでけておられるのです。必ずしもそれは親と言う事ではない。久留米の井上さんの場合もそう、今日はお姉さんのお立ち日であった。
そういう例えば、その身内の者でも御霊様にでも通う心、それが私は親に孝行する心だと。まだお母さんが達者にしておられますから、お母さんが今日は、教会で、玉串を上げさせて頂いた。好きな甘な辛なのお供えもさしてもろうた。親が喜ばないはずはない。とりもなおさず親孝行。そういう心を愈々育てて行くと言う事によって、天地の親神様のお心が分かる。いや分かりたいとお参りをしてくる。
分かりたいと修行する、神の心が知りたい、親神様の思いが分かりたい、分かりたい分かりたいち分かっただけではいかん。分かったらそれに、添わせて頂くと言う事が親孝行。これはもう信心のもう根本になるものですから、お互いの親孝行心というものをです、親不孝したいというものは一人も、親であり子である以上、あるはずありません。けれどもほんとに親に喜んでもらいたい、ほんとに親に大事、親を大事にしなければおられないという心、渕上先生じゃないですけれども。
百五歳にもなられたお母さんが亡くなられたら、ね、やはり寂しゅうて寂しゅうてたまらんと、親を慕われる、心。いかに日頃が親孝行であったかと言う事が分かります。もうあんた年じゃけんで、もうあぁたもうお祝いしたっちゃよかごとある年ですけんって事で諦めん。私、親っていうものはそうだと思うんです。そういう心でね、そういう心を切に燃やして、親孝行心を高めて、その心を持って神様へ向かう。ただそういう親孝行の人は沢山ありますよ。ね、
けれどもその、親に孝行したから、おかげを頂くというのではない。そういう心で信心をするということ。そういう心で修行をすると言う事。そういう心で神様の心が分かりたいと願い、分かったら分からして頂く、所謂神の心にそうた生きかたをする、と言う事が、お道の信心です。最近はその神様の心の奥の奥と言う様なものが、合楽ではまあ唱えられるように言うておりますねそれはどう言う事かというと、今合楽で言われておる五つの願いなんです。
どうぞ私を初め一家中の者が、健康のおかげを頂きますようにという願い。どうぞ家庭が円満、信心は家庭に不和の無きが元と仰せられますが、家庭円満のおおみかげを頂かせて下さいと願う。どうぞ家繁盛子孫繁盛のおおみかげを頂かせて下さいと、切実に願う。しかもその願いは、私だけではない子供にも頼むが良い家内にも頼むが良い、自分ところに女中さんが置いてあるなら、女中さんにも番頭さんにも頼むが良い。
そしてこの事を願い祈らして貰う。その代わり神様、健康のおかげを頂かせて下さいと願うからには決して私は、不摂生な事は致しません。この願いが立てられて私はもうその翌日から、お夜食をする事を止めた。もうその日から私は通じのおかげを頂いた。大変私は秘結をしよりました。と言う位におかげを頂いた。この事を腹が決まった。どうぞ家庭の円満を願わないものはありませんから、家庭の円満を願わなければならない。願うからには決して人を責める様な事は致しません、これを修行とさせてもらう。
家内が主人を責める主人が家内を責める、親が子を責め合うと言う様な事は致しません。責めおうておって家庭の円満のおかげを頂ける筈はないです。決して責めませんという修行をさせて頂いて家庭の円満を願う。家繁盛子孫繁盛を願わないものはない。それを切実に願う。御神前に向かうたびに願う。本当に信心を頂いておると言う事が有り難いなあと思う、その有り難いと思う心で願う。合楽にご神縁を頂いておったということは、本当に有り難いことだと、有り難いと思うたらその有り難いと思う心で願う。
昨日もある方がお参りをして来て、もうほんとに目をつぶればあれを思い、これを思い、有り難い有り難い、もうほんとにおかげを頂いたもんじゃあります、お礼ばかり申し上げておりますとこういう。だから今まではそれでよかったばってん、これからは合楽はそれじゃいかんよと。あれを思いこれを思いおかげを頂いておる、ただお礼を申し上げるだけだと、そのお礼を申し上げるだけだと言う様な純粋なお礼心をもって、その喜びの心をもって、五つの願いを願いなさい。
この五つの願いというのは、よくよく分からせて頂いたら、それが神様の本音であり、神の願いであったからなのである。そげん欲の深い事は願われん、なんて言う事ではなかった。それが神様の願いである、氏子にかけられるどうぞ、氏子健康であってくれよ、家庭円満であってくれよ、愈々子孫繁盛家繁盛の日勝り、月勝り、年勝りのおかげを受けてくれよというのが、神様の心の底の底にあるんです。
氏子の助かりを願うて下さるんです。だから、願うて下さっておる願いが分かったところから、切実に願わなければおられないというのが、今の五つの願いです。その三つの例えば願いを申しました。そして真実の御用ができますように、これは神様の願いである所の、所謂神願成就のおかげを頂きますように、和賀心時代が私の家を中心にして広がっていくようなおかげになってまいりますように、とその五つの祈りというものをです、有り難いと思うたら願い、勿体無いと思うたら願い。
その有り難いと思う心で願うからおかげになるのです。私は今朝の御理解を頂きながら、初めてそれを気付かせてもらった。今月今日で一心に頼めい、おかげは和賀心にあり、御神訓の第一条にあります。今月今日で一心に頼む、それは今月今日で和賀心を持って一心に頼む、和賀心というのは神に向こうた心、信心の喜びの心、ほんとに信心を頂いておるということが有り難いと思う心、その心を持って一心に願わせていただくことはこの五つの願いでなからなければならん。
今まではもう和賀心さえなっときゃよかごと思うとる。しかしここまでの信心は、大変なことでございますね。有り難い、ところがです、神様の心のもう一つ向こうが分かった。分かったら願わなければおられない、それは神様の願いであったから、神様の願いが分かった、親の願いが分かったところから、親の願いどうりにさせて頂くことが、親孝行なら、神様の心が分かった、なら、神様の心に添い奉ることが、分かる。
私どもが有り難いと思う心で、五つの願いを、もう朝願っとるから、昼は願わんでんいいということはない。御神前にぬかずくたびに、そのことを願う。しかも、あんたも願ってくれたか、お前も願ったかと、子供にもそのことを頼む。頼んで拝んでもらう、頼んで願ってもらう、そこに頼まれた子供も、頼まれた家内も主人もおかげを受けることになるのです。どうでも願わなければならないこと、それは家族中の者が、勢を揃えて、そして五つの願いをさせてもらわなければならない。
その願いをさせてもらうのがです、一心に願うのがです、私どもが有り難いなぁと思うたときの心が一番良い。勿体無いなーと思うた時が、一番良い。これはもうどういうときでもです、もう願って、願って願いぬかせて頂くということが、神様の願いに添うていくことであり、神様の心に迫っていくことなんです。そうして、そのおかげを受けた暁こそがです、神様が、ようこそおかげを受けてくれたと喜んでくださるときだ。今日はあの、お供えに、超特級のお酒が沢山お供えがあっておりましたですね。
あれはね熊本の富永先生の所の、日奈久教会の御信者さんがたが、もうあのとにかく、もう大体が、体中に全体に病気を持っておられる方です。今度はもういよいよ難しかちゅうごとひどかった。病院に入院したけども、もう自分方ではだめだから、医大の方へ行ってくれと言われたけれども、ご神意はここでよかということであったからもう神様に一心にすがられた。毎朝、毎朝お電話がかかってくる。
総代をしておる上野さんという兄弟達二人が、熱心に参ってくる。十日に一辺のが、七日に一辺になり、七日に一辺のが、五日に一辺になり、五日に一辺が三日に一辺になり、私はこれはまだ信心が足りんからじゃと、信心をしていけばそこからおかげが受けられるというのはこれだと思う。お神酒なんかでも初めは二本持ってきた。その次には三本、その次には五本、その次には六本、その次には十二本、そいでとうとう、月次祭から月次祭まであれだけ貯まった。あの大盛りの二台のなかに全部収まった。
その方が参って来たときに、お届けさしてもらいよりますたらね、あのお初穂袋に熨斗がついとる。それで実はがばがばしよる。そのがばがばしよる、信心の帯をせよと言う事は、締めるということだと思っておったらね、信心の帯を、そこに札束ばぱっとこう入れたから、上のあの、水ひきがちゃっとしまってしまう。信心の帯をするて言う事はそういうことなんです。初めの間にお神酒を二本持ってきた。
三本持ってきたように、初めのときが一万円じゃったら、次には二万円、次には三万円、次には五万円というようにです、それを多くしていく。もうそれこそお参りをするたんびんに、医者もたまがる、先生自身もたまがる。先日退院のおかげを頂いたときに、最後のあの、超特級の半ダースづつはいっとるとを二箱、十二本持ってきた。それこそ中に札束押し込んで、持って来た。これが信心の帯をするのだと私はそんとき始めて気がついた。信心の帯びちゃ締めるんかと思うとった。
ところがね、例えばがばがばしよるなら、今度は腹が大きゅうなればいいのです。大きゅうなるおかげを頂くことだ。退院をして見えてから富永先生がです、もう今度ばかりは、親先生のお取次ぎのおかげ、または、信者の真心いっぱいの信心のおかげで助かりましたと、もう声がでらなかった。電話の・・?で。富永先生は良い信者をもたれて幸せだと、私一番初めに参ってきたときに、そう思うた。
例えば信心は親に孝行するも同じこと、教会におかげを頂いて、信者と氏子の中に、それこそ親子でも、感じられないほどのものが交流する。だから親先生というのである。そういう例えば願い、日奈久から四時間かかる。ここまで、一日の御用をいっぱいさして頂いて参って来るからいつも、ここに着くときには十時ごろ、夜、また帰って。しかもそのおまいりの内容がです、初めのとき、これでもいかんなら、こうもう一つ、こう押し上げていくこと信心とは。
信心の帯を締めるということは、これが大きくなっていくこと。信心は親に孝行するもおなじことぞや、というこれはもう具体的なね、実例であります。それこそ助からんはずの者が助かる、子供のおかげで信者の祈りのおかげでこの私が助かったと親が喜ぶ、その喜びが上野さんたち兄弟の、言うなら力にならないはずがないです。私どもがどうでもおかげを頂かなければならない。
いやどうでも願わなければならない。しかもそれは、家族中で願わなければならない。しかもそれは日参り的修行の中から、そういう願いを持ってさしてもらう。しかも一心に願うことはです、和賀心を持って一心に願わなければならない。和賀心とは、わが心が、神に向こうた時の心が和賀心。合楽にご神縁を頂いておった、金光様の信心を頂いておったということが有り難いというその思うとるだけじゃいかん。
お礼の申し上げようのないほどに、おかげを頂いておるというその心で、おかげを頂く。昨日、私は、教徒新聞を見せて頂いておったら、熱海の教会の先生が、直腸がんでおかげを頂かれた。一回手術をしたときには、人造肛門をここに造らなければいけないということであった。それで一辺ふさいで、二週間後に手術をした時にはね、はっきりそこにあった癌が、親戚の者も、お医者さんも何人も立ち会って。
そのこれが癌だというその癌をですね、はっきりこう見せてもろうた。それが二度目に切開してから、いよいよその本手術があったときには、もうすでに癌の、のが、跡形も無かった。もちろん、その二週間の間に、真っ黒い物が口から出たり、下から下がったりしたということです。そういう中にです、神様のすさましいまでの、働きを思うときに、私はここで、その新聞を読みながら、感動した。
もう丁度四時の御祈念だったから、その感動した心で、私は御神前にでたら。その感動の心で、五つの願いを願えと神様が、和賀心で一心に願うということはね。そういう、例えばお話を頂いて有り難かった、その有り難かったと思う心で、五つの願いを願うんです。その願いというのは、天地の親神様の、神様の願いなのだから、その願いと願いがここに一つになるから。
親神様の願いと氏子の願いが一致するから。素晴らしいことになってくる。健康の事も家庭円満のことも、家繁盛子孫繁盛のこともです、そういう意味合いにおいて、その祈る内容というものがです。はっきりとここで分からされた。なぜ願わなければならないか、と言う様な事も分からせられた。そこで私どもはこのことを祈り願わして頂くところの信心をです、家族勢を揃えて願っていくところのおかげを頂き。
そして願いが成就するところのおかげを頂いたときに、神様の願いもまた成就したということになるのです。明日はいよいよ、あさっての報徳祭の前夜祭が、この時間からございます。あさっては愈々報徳祭でございます。私は一つ皆さん、今度の報徳祭にです、ひとつ本気でね、あの、家族中で一つお参りをさせていただこう、親戚中でお参りをさせて頂こう、自分の知っておるお付き合いの方たちも全部案内をしてもらって、一緒にお参りをさして頂こう。
もう今度の報徳祭にはもう、ほんとにお店をいうならば閉めて、番頭さんたちにも頼んで参ってもらおう、そしていかにです。家族中が勢を揃えて祈ったり願ったり、お参りをしたりする事が、どの様なものかと言う事を一つ、体験させて頂く意味合いにおいてでもです、今度の報徳祭にそういう私は、家族勢を揃えて、お参りをしその家族勢を揃えて、五つの願いを願わして頂くおかげを頂きたいと思うのでございます。
どうぞ。